学問・資格

May 30, 2018

「自灯明」の教えと学問的姿勢

 ぼくは院試塾の指導を,自らの学問的理想の実践と考えている。ぼく自身は権威主義はおよそ学問的な姿勢ではないと考えていて,院試塾の受講生にも「自ら考えること」を求めている。ぼくがそのように言うからそのようにする,というのではなく,ぼくの言うことが学問的に正しいと納得するからそうする,という姿勢を求めている。
 仏教に「自灯明」「法灯明」という教えがある。釈尊は入滅直前に弟子に次のように説いたとされている。


おまえたちは,おのおの,自らを灯火(ともしび)とし,自らをよりどころとせよ。他をよりどころとしてはならない。この法を灯火とし,よりどころとせよ。他の教えをよりどころとしてはならない。(『仏教聖典』Amazon Kindle版位置No.183)

「神授業」や「カリスマ講師」を盲信して自分の頭で考えようとしないのは,学問的なありかたとしても生きかたとしてもまちがっているのではないだろうか。ところが,学生ではなく社会人になっても,そのような考えかたから抜け出せていない人が多いのである。

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May 24, 2018

院試塾の指導とぼく自身の学び

 ぼくは院試塾の指導を単なる仕事としてだけとらえているわけではなく,自分が勉強するきっかけでもあると考えているから,受講生が取り組んでいる内容に少しでも興味があれば関連する書籍を読むことにしている。今回もそのような本の情報を受講生に伝えたところ,「そこまでしてもらえるとは思わなかった。とてもありがたく感じている」とのメールをいただいた。ぼくにとってはごく当たり前のことなのだが。
 たとえば英語の指導でも,最近東京大学人文社会系研究科に合格した受講生(この方の合格者コメントはこちら)の指導のために,その受講生が受験する分野の英語の概説書を使った。また,大学入試問題の解答・解説を書く仕事もしているが,問題文の出典となっている本のKindle版があれば,できるかぎり買って読むようにしている。
 要するに,ぼくの仕事は自分の学問の入口でもあるのだ。

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February 16, 2018

学問的態度を身につける―よくない習慣をunlearnすることの大切さ

大学院入試を機会に役に立たない習慣をunlearnしよう!という記事では,「受かる思考習慣」を身につけるためには古い思考習慣を捨て去る(unlearnする)ことの重要性について説いた。今回の記事では,人生や組織の転換期をうまく乗りこえるための考えかたを解説する書物から,この点についてきわめて明確かつ簡潔に語っていると思われる箇所を見つけたので,紹介しておきたい。


Before you can begin something new, you have to end what used to be. Before you can learn new way of doing things, you have to unlearn the old way. Before you can become a different kind of person, you must let go of your old identity. Beginnings depend on endings. The problem is, people don't like endings. (William Bridges, Managing Transitions: Making the Most of Change, Amazon Kindle版位置No.626)
【試訳】
何か新しいことをはじめる前に,その前のものは終わらせなければならない。ものごとの新しいやりかたを身につける前に,古いやりかたは忘れなければならない。違う種類の人間になるためには,古い自分は捨てなければならない。はじまりには終わりが必要なのだ。問題なのは,終わりを好きな人はいないということなのだ。

まさにこのとおりなのである。

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January 12, 2018

「方法」と「方法論」

 以前「大学院入試の面接」という記事でもふれたが,院試塾の「口頭試問・プレゼンテーション指導」の想定質問に,「大学院での研究の方法論上の特徴を簡単に説明してください」というのがある。この質問に適切に応えられる人は少ない。その原因は,「方法」と「方法論」の違いが十分にふまえられていないからである。大学院での研究を志すにあたっては,このような学問の基礎に関する哲学的反省も必要ではないだろうか。
 とはいうものの,この違いは何も専門的な事典類を調べなくても把握することができる。『日本大百科全書』では「方法論」を次のように説明している。


識を得るための方法についての論議のこと。哲学には昔から方法論的な性格があった。プラトンの「対話篇(へん)」には、ソフィストの方法とソクラテスの方法との違いについての議論が盛んに出てくるし、アリストテレスの『形而上(けいじじょう)学』も方法についての話から始まる。中世には、神学の方法と哲学の方法との違いが論ぜられた。また東洋でも、方法論に思いを潜めた思想家は多い。しかし、現代人が「方法論」の名のもとに関心をもつのは、主として科学方法論と思われる。近世になって、新しい認識方法としての自然科学が登場するに及び、多くの哲学者がこの新しい学問の方法の性格づけを求めた。ベーコン、デカルト、ライプニッツ、カントらは、とくに方法論的関心が強かった。しかし、新しい方法の意味を的確にとらえていたのはやはり科学者のほうで、ガリレイ、ボイル、ニュートンらには、方法論のうえでも優れた発言が多い。
 自然科学の方法の成功の秘密の一つは、いうまでもなく実験と観察を重んじたことであるが、さらにこのほかに、数学、つまり論理を重んじたことに加え、カテゴリーを時間、空間、質量に関するものに限ったということが重要な点である。そこで、社会科学や人文科学の領域にも、前記の三つの特色を備えた方法を導入し、新生面を開こうとする試みが、19世紀において盛んであった。けれども、この試みはあまり成功せず、したがって、この領域では別の方法が必要だとする意見も多かった。近ごろになり、カテゴリーの制限にはかならずしもこだわらず、論理的な面に注目することにより、すべての科学に通ずる方法を統一的に論じようとする考え方が出てきた。これは、一方では論理学の発展と、他方ではいわゆる数理科学の発展と関係のある事柄である。なお、各科学特有の個別的な方法についての議論を「小文字の方法論」ということがある。たとえば、心理学や経済学はこの小文字の方法論がいまなおよく行われている分野である。(強調は引用者)

強調部分に注目すると,特定の学問分野における研究方法についての議論が「方法論」であると読みとることができる。たとえば言語学では,生成文法を代表とする理論言語学では内省によって自分で作った例文をもとに,その容認度を議論することが認められているが,計量言語学のようにこのような方法を採用することは認めず,実際に観察されたデータだけを対象とする立場もある。この対立軸が「方法論」の立場の違いなのである。

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December 07, 2017

「作業」と「仕事」

 セブンイレブンCEOの鈴木敏文氏が『なぜ、セブンでバイトをすると3カ月で経営学を語れるのか?―実践ストーリー編』のインタビューで次のように語っている。仕事だけでなく学問研究にも通じるものがあると感じたので,紹介しておきたい。


単なる“作業”はすでにある答えに従って行うのに対し,本当の“仕事”は自分で疑問を発し,答えを出していかなければならない。発注は作業ではなく仕事です。困難でも自分で答えを出し,成果に結びつけばやりがいになり,面白みが増して,もっといい答えを出そうとする。作業はいつまで経っても時間の切り売りのままで,そこから先へは進みません。(p.8)

院試塾での指導でも,単なる「作業」として取り組んでいる受講生と,当事者意識をもって,自分のこととして真剣に学んでいる受講生とでは,当然ながら出せる結果も違ってくる。鈴木氏の言う「作業」としてやっているだけでは,「身になる」学問はできないのである。

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December 03, 2017

情報を整理して提示するとは?

 ぼくは常々言っているのだが,PowerPointのスライドには「文章」を書くべきではない。しかし実際には,文章を書く人があまりに多い。情報は自分で咀嚼して,わかりやすく提示して示すべきなのである。この記事では,旧約聖書の創世記の冒頭の天地創造の記述内容をPowerPointスライドを使って説明する,と想定して,どのようなスライドを作ればよいかを考えてみることにしよう。


初めに,神は天地を創造された。地は混沌であって,闇が深淵の面にあり,神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。「光あれ。」こうして,光があった。神は光を見て,良しとされた。神は光と闇を分け,光を昼と呼び,闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り,大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり,朝があった。第二の日である。神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び,水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て,良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と,それぞれの種を持つ実をつける果樹を,地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ,それぞれの種を持つ草と,それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て,良しとされた。夕べがあり,朝があった。第三の日である。神は言われた。「天の大空に光る物があって,昼と夜を分け,季節のしるし,日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって,地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り,大きな方に昼を治めさせ,小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて,地を照らさせ,昼と夜を治めさせ,光と闇を分けさせられた。神はこれを見て,良しとされた。夕べがあり,朝があった。第四の日である。神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上,天の大空の面を飛べ。」 神は水に群がるもの,すなわち大きな怪物,うごめく生き物をそれぞれに,また,翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て,良しとされた。 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ,増えよ,海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり,朝があった。第五の日である。神は言われた。「地は,それぞれの生き物を産み出せ。家畜,這うもの,地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣,それぞれの家畜,それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て,良しとされた。 神は言われた。「我々にかたどり,我々に似せて,人を造ろう。そして海の魚,空の鳥,家畜,地の獣,地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ,増えよ,地に満ちて地を従わせよ。海の魚,空の鳥,地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ,全地に生える,種を持つ草と種を持つ実をつける木を,すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣,空の鳥,地を這うものなど,すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ,それは極めて良かった。夕べがあり,朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に,神は御自分の仕事を離れ,安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ,安息なさったので,第七の日を神は祝福し,聖別された。(『旧約聖書』「創世記」[新共同訳]第1章第1節〜第2章第3節)

この内容からPowerPointのスライド作成する場合を考えてみよう。多くの人は次のようなものを作るのではないだろうか。
Genesis_1
つまり,PowerPointスライドのデフォルト形式である箇条書きテキストでまとめてしまうわけである。たしかに作るほうは単純だが,これを見ながら説明を聞くとなると,文章を読まなければならない。つまり,頭に入りにくいのである。また,聖書の記述をそのまま整理せずに引用している箇所と「太陽と月」のように整理している箇所とが混在しているのもわかりにくい。整理するのであればもっと徹底して,すべての記述を簡潔に整理した形で提示すべきであろう。
 このように考えたときにすぐに思いつくであろう改善策はこのようなものである。
Genesis_2_2
たしかに記述はある程度整理されてはいるが,これでもまだ「読む」必要があって,1枚のスライドとしての完成度はあまり高くないと言えるだろう。また,特に第6日の人以外の被造物はもっと大胆にまとめるべきだと思う。
 ぼくが理想だと考えるスライドは次のようなものである。
Genesis_3_2この形であれば,さまざまなものが順番に想像されていく過程が一目瞭然であるし,内容も整理されている。説明を聞いている人はスライドの内容を「読む」必要がなくなるのである。
 もし文章を読ませたいのであれば,PowerPointなど使わずに,上の聖書の文章を印刷して配布したほうが読み手(あるいは聞き手)にとってずっと親切だと言えるであろう。


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言葉としっかり向きあうということ

 学問の基本的な力とは,言語操作能力であると言っても過言ではないだろう。しかしほとんどの人は,あまり深く考えずに言葉と向きあっているのではないだろうか。院試塾の指導において,特に問題となっている事例を2つ紹介しながら,学問において言葉と向きあう際の姿勢について考えてみたい。
 まずとりあげるのは,神戸大学MBAの「経歴詳細説明書」という出願書類についてである。院試塾の「『読む』と『見る』は違う!』でも指摘したが,見ているだけでまったく読んではいないのである。また,指示されるまで国語辞典を引かないという姿勢も問題である。言葉の意味がわからなければ辞典を引くのはごく当たり前のことなのである。なお,「ハイライト」を国語辞典で引くと,たとえば『新明解国語辞典』では,2番目の語義として「〔演劇・放送・スポーツなどで〕中心となる、最も興味のある部分(場面)」とあるから,職務経験全体を説明したのではまったく的外れなのである。
 続いて紹介するのは,院試塾の「口頭試問・プレゼンテーション指導」の想定質問である。このなかの1つに,「あなたの研究の方法論上の特徴を説明してください」というのがあるのだが,「方法」と「方法論」とを同じように考えているとしか思えない回答が続出する。このような人に対しては,「辞典などで調べて『方法』と『方法論』の違いを十分に把握したうえで再検討するように」と指示するのであるが,これは先ほどの「ハイライト」の場合と比べるとやや高度なポイントで,一般的な国語辞典を引いただけではなかなか違いは理解できない。しかし,たとえば『日本大百科全書』を見ると,「自然科学の方法の成功の秘密の一つは,いうまでもなく実験と観察を重んじたことであるが,さらにこのほかに,数学,つまり論理を重んじたことに加え,カテゴリーを時間,空間,質量に関するものに限ったということが重要な点である。そこで,社会科学や人文科学の領域にも,前記の三つの特色を備えた方法を導入し,新生面を開こうとする試みが,19世紀において盛んであった。けれども,この試みはあまり成功せず,したがって,この領域では別の方法が必要だとする意見も多かった。近ごろになり,カテゴリーの制限にはかならずしもこだわらず,論理的な面に注目することにより,すべての科学に通ずる方法を統一的に論じようとする考え方が出てきた。これは,一方では論理学の発展と,他方ではいわゆる数理科学の発展と関係のある事柄である。なお,各科学特有の個別的な方法についての議論を「小文字の方法論」ということがある。たとえば,心理学や経済学はこの小文字の方法論がいまなおよく行われている分野である。」という記述がある。参考までに言うと,言語学においても方法論上の議論はきわめて重要な位置を占めており,たとえば言語学に革命をもたらしたとされるN・チョムスキーの手法は,言語直観と内省を重視し,それゆえ特に自分の母語の場合には「作例」の「容認可能性」を軸にした議論がなされる傾向がある。

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November 23, 2017

勉強に対する発想の転換

 院試塾での指導を行っていると,世の人々の「学問観」「勉強観」がわかってしまうことがある。それは「減点法的思考法」とでも呼ぶべきもので,たとえば英語学習で言うなら「試験で減点されない答案の書きかた」を勉強しようとするわけである。ところが学問というのは,単にまちがいを避けるだけではなく,「正しい考え」にいたる道筋を学ぶものでもある。英語学習で言うなら「正しい読み」にたどりつくための訓練も必要なのである(そして,このブログの英語カテゴリの記事を読んでもらえば,それがどのようなものであるかはだいたいわかるのではないかと思う)。こんなことを考えていたら,ちょうど今読んでいる本で「これは」と思う記述に出会ったので,ぜひ紹介しておきたい。


To improve performance, we need to do two things. The down arrow is what we have to reduce, errors. The up arrow is what we have to increase, insights. Performance improvement depends on doing both of these things.[【試訳】何かをよりよく行うためには,2つのことをする必要がある。下向きの矢印は減らさなければならないもの,つまりまちがいを表している。上向きの矢印は増やさなければならないもの,つまり真実を理解することを表している。なにかをよりよくおこなえるようになるためには,これら2つのことをどちらも行わなければならないのである。] (Gary Klein, Seeing What Others Don't: The Remarkable Ways We Gain Insights, Amazon Kindle版位置No.137)

 insightにもっと目を向けて勉強しようではないか!

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October 21, 2017

「効率」という考えかたが学問をつまらなくする

 ぼくから見ると世間の多くの人たちは,勉強・学問というのを「しなくてすむならばしないですませたいもの」と考えているように見える。ぼく自身は学ぶことをとても楽しいと感じてやっているので,このような考えにはどうしてもついていけない。「しなくてすむならばしないですませたい」から,できるかぎり時間と手間をかけずに最大限の効果をえる「効率」という考えかたが出てくるのである。「効率」というのは結果だけを重視し,そこにいたる過程はできるかぎり簡単にすませたい,という考えかたなのだが,学問はそもそも考えたり新しいことを知ったりする「過程」こそが楽しいので,その過程を簡単にすませるというのは実はいちばん楽しい部分を飛ばしてしまうことになるのだ。
 たとえば外国語学習では,単語の暗記を行うのが効率がよいとされており,単語集を頭から覚えていくという学習法に頼っている人が多い。しかし,単語の意味がなぜそのようになっているかを,語の構成や語源などで根拠づけながら考えていくと,その過程もおもしろく感じられるし,また結果として記憶にも残りやすくなるのである。
 また,特に大学院入試においては,新しい学問にチャレンジする人も多く見られる。実はこの新しい学問を学びはじめるという過程は,今までとは違うものの見かたを身につけるという,最高に刺激的な経験なのだが,目の前の大学院入試を「効率的に」突破・攻略したいとばかり考えていると,この最高に刺激的な経験を楽しむことができなくなってしまう。そして,学問の歴史を少しひもといてみるとわかるのだが,大きな発見というのは実は初学者や,さらにいうと子どもがもつような疑問に真っ正面からとりくんだ結果えられるものなのである。つまり,この初学者の時期を十分に楽しめなかった人には,その後の大きな発見もないのである。
 ところがいわゆる受験業界を中心に,教師と言われる人たちですら学問にこの「効率」というまちがった考えかたを持ちこんだり,自分で学問を楽しんだ経験がなかったりする人たちが多くいるのはとても残念なことではないだろうか。まずは教師自身が学問の過程を楽しんでいる姿を学習者に見せなければならないと,ぼくは考えるのである。

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September 20, 2017

箇条書き思考の問題点

 PowerPointでの資料作成が広まり,PowerPointの基本的書式が行頭記号つき箇条書きであることもあってか,何でもかんでも箇条書きにする習慣がついている人がいるが,論理的思考の訓練,文章作成技術の工場などの観点から言うと,あまり好ましくない傾向だと思っている。図解思考で知られる久恒啓一先生もさまざまな本の中に書いていらっしゃるが,箇条書きには思考をそれ以上深化させないという欠点があるのだ。
 箇条書きでは項目間の関係は考えなくてもすむ。また,項目の順序についても,本来は重要なものから順に並べるべきなのだが,あまり気にしていない人が多いようである。つまり箇条書きではただ項目を列挙すればよく,論理はあまり顧みられないのである。
 普段そのような文書作成に慣れてしまっていると,学問の世界で必要となるような,段落を論理的単位として,段落や文章全体をきちんと「構造化」して書かなければならない文章を書くのはかなりきついと感じるようである。院試塾の研究計画書作成指導などでも,最初のうちは整理のために箇条書きのメモの提出を可能としているが,いつまでもその段階から抜け出せなくなる人がいるのである。

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