学問・資格

September 20, 2017

箇条書き思考の問題点

 PowerPointでの資料作成が広まり,PowerPointの基本的書式が行頭記号つき箇条書きであることもあってか,何でもかんでも箇条書きにする習慣がついている人がいるが,論理的思考の訓練,文章作成技術の工場などの観点から言うと,あまり好ましくない傾向だと思っている。図解思考で知られる久恒啓一先生もさまざまな本の中に書いていらっしゃるが,箇条書きには思考をそれ以上深化させないという欠点があるのだ。
 箇条書きでは項目間の関係は考えなくてもすむ。また,項目の順序についても,本来は重要なものから順に並べるべきなのだが,あまり気にしていない人が多いようである。つまり箇条書きではただ項目を列挙すればよく,論理はあまり顧みられないのである。
 普段そのような文書作成に慣れてしまっていると,学問の世界で必要となるような,段落を論理的単位として,段落や文章全体をきちんと「構造化」して書かなければならない文章を書くのはかなりきついと感じるようである。院試塾の研究計画書作成指導などでも,最初のうちは整理のために箇条書きのメモの提出を可能としているが,いつまでもその段階から抜け出せなくなる人がいるのである。

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September 12, 2017

思考と感情

 院試塾での指導を通じて,「思考」と「感情」との区別について考えるようになった。どうも,学問的能力というのは,「思考」を組みたてたり操作したりする力と密接に関係しているのではないかと感じたのがその理由だ。
 とうのも,客体として操作可能な「思考」を組みたてる能力がない人がけっこういるのである。そういう人は主観的で操作不可能な「感情」しかもてない。ところが,文章化できるのは「思考」のほうなのである。学問というのは文章を読み書きしながら行うものなので,文章を通じて思考を操作すること,つまり,文章から書き手の思考を読みとったり,文章に自分の思考を乗せたりする能力は必要不可欠なのである。
 しかし,文学では「感情」を素材としているではないかという人があるかもしれない。しかし,ぼくに言わせれば,「感情」を感情のままにしておいたのでは文学は書けない。感情を「思考」としてとらえなおして操作対象にすることによってはじめて文学として書くことが可能になるのではないだろうか。
 ところで,いわゆる「学力」の高い人でも思考を組みたてる能力が低い人がいる。これは,いわゆる「学力」が他人が操作可能な形にした「思考」を操作する能力だからであろう。学問においては自分で思考を操作可能にする必要があるが,高校までの勉強では操作対象としての思考はすでに操作可能な形で用意されているのである。それを操作することにいくら長けていたとしても,自分で思考を操作可能にするのとは別ものなのである。
 それでは,この「思考」を組みたてたり操作したりする能力はどのようにすれば身につけられるのであろうか。極論すれば,「実地訓練」しかないのだと思う。適切な指導者を見つけて,効率などはいっさい考えずに,基本に忠実に思考を操作して文章にしていったり,文章から思考を読みとったりする訓練をしているのである。そのためにはまず,学ぶ側が学習に対する既成概念を大きく変える必要があるのではないだろうか。効率のよいお手軽な「お勉強」では,このような力はけっして身につかないものだと思う。

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August 29, 2017

合格のための思考習慣―院試塾「合格者コメント」から

 院試塾では,不合格になってしまった人にわざわざ尋ねるのも申し訳ないという思いから,体系的な合否の追跡調査を行っていない。つまり,「合格実績」として公表しているのは,すべて自主的にご報告いただいた方々のみである。そのようなご報告をくださった方ほぼ全員に,「合格者コメント」の執筆をお願いする。ご承知いただけるのは3分の1ほどであろうか。もちろん,予備校の広報宣伝活動において,このような「合格体験記」がはたす役割はきわめて大きいのだが,それ以上に,ぼく自身が自分の日々の活動が正しい道を進んでいるものである点を確認する機会であるとともに,合格者の「思考習慣」を理解するための情報源としても利用できるのではないかと思う。
 まず,寄せられたコメントを読んで感じるのは,どなたも大学院での研究を真剣に考えていて,そのための1つのステップとして大学院入試,研究計画書作成などをとらえているということである。「受験対策」というケチな考えかたでやっている人はいないのである。大学院での研究の一環であると考えているから,そのための苦労にも耐えられるのである。このことは,コメント中に「厳しい指導」を高く評価する内容が多いこととも関連する。つまり,「厳しく鍛えられている」と考えるからこそ,それを高く評価しているのであろう。
 また,院試塾では指導内容をすべて48時間以内に返信するとお約束している(それより短い時間での返信希望には応じないと指導条件で明言している)が,それをうまくスケジュールに組みこんで,自分なりの学習ペースをきちんと作っているようである。研究は時間との勝負であり,また,大学院に入学すれば,毎週の課題や論文・レポートの提出など,自分なりにスケジュールをきちんと考えながら学習などを進めていく必要が生じる。そのための基本スキルがすでに備わっている人が,合格しているのであろう。
 さらに,これまでの内容とも関連するが,院試塾ではトッブベージに「院試塾の理念と指導」という長文を掲載している。かなり厳しい内容で,個人的な知りあいからはあんな文章をトップページに出していて大丈夫なのかと心配してくれる人もいるのだが,合格者コメントを見るとこれがなかなかの高評価なのである。やはり教育活動というのは,教育をする側と受ける側との価値観が一致しているときにもっとも高い効果を発揮するものではないかと思う。合格を果たしたみなさんが「院試塾と理念と指導」に共感して院試塾を選んでくださったことに,ぼくは本当に深い感動を覚えるのである。

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August 20, 2017

学問的価値観と文化資本

 フランスの社会学者であるピエール・ブルデューが提唱した考えかたに「文化資本」というものがある。学歴や文化的素養などが家庭を通じて継承され,それが格差となるという考えかたなのだが,大学院入試の指導をしていると,まさに大学院レベルの学問にたえうるかどうかはこの「文化資本」の差なのではないかと感じることがよくある。というのは,こちらが提示する「学問」をきわめてすんなりと受け入れられる人とそうではない人とがどうもいるようで,その差はどうやらそれまでの努力の差ではなく,それまでに身についている「価値観」の差であるようなのだ。
 もしこの見方が妥当であるならば,大学院志望者がまず最初に身につけるべきであるのは,この「価値観」であるということになるわけだが,これが本当にブルデューの言う「文化資本」であるならば,そう簡単に身につくものではない。しかしそれでも,その価値観を「そういうものであるからしっかり受け入れる」という決意をした人は,学ぶ姿勢がきちんとあればある程度,少なくとも大学院入試に対応できる程度には身につくのではないかと思うのだが,これまでの指導経験から言うと,そのような「価値観」はそれを持ち合わせていない人にはなかなか受け入れがたいもののようなのである。

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August 12, 2017

言語能力と学問的能力

 院試塾では,言語能力と学問的能力は深く密接に関わりあっているという考えをもとに指導を行っている。学問とは煎じつめればその分野の「言葉づかい」に慣れ親しみ,自分自身もそのような言葉づかいができることだと考えているからだ。そして,学問的能力が低い人というのは,言語能力も低い人である場合が実に多い。言葉の解釈が自分勝手であったり,読んで理解する能力が低かったりするのである。このような人はもちろん,学問的な生活な言葉づかいなど身につけられるわけがないのである。ところがこれはあまり「自覚症状」がないらしい。
 なお,このような人たちが低いのは学問的な言語能力だけではなく,言語能力全般である。たとえば,単語だけで会話をするなどの傾向も強い。

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August 10, 2017

単なる「指導」を超えて

 大学院入試関連の仕事,特に学問研究の入門である「の指導」をしていて,単なる「指導」の枠を超えて,いっしょに勉強していこうと思える瞬間というのがある。それはもちろんテーマにもよって,専門外で興味をもっていたテーマであることも多いのだが,それ以上にその人のひたむきさというか,一生懸命なようすに打たれてそうするのである。
 そのようなときには,たとえばブックレポートの指定図書を自分でも買っていっしょに読んでいくことになる。単なる指導の場合でもできるかぎりその本は入手して,レポートの指導の際には参照するのだが,それは指導のために参照しているのであって,自分の勉強として読むわけではない。ところが,ここで話題にしているような場合には,「いっしょに勉強」するのであるから,自分の勉強として読むのである。
 おそらく,自分の専門外でも「この人なら自分で研究指導を引きうけてもよいか」と大学院の教員が感じるのは同じような感覚なのではないかと思っている。そして幸い,そのような感覚はどうやらあたっているようで,ぼくがそのように感じた人はたいてい志望大学院に合格していくのである。
 そのような人がどういう特徴を備えているかを考えてみると,まずは知的好奇心にあふれているとともに,実力はともかくも学問的なものの見かたができている人ではないかと思う。つまり,自分の学びに対して自分で責任をもつとともに,「学問的」なものに対して一定の敬意を持っている人,ということができるのではないかと思う。ぼくの周囲で学問を仕事にしている人々を見ても,たしかにそういう人が多いように感じる。

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July 26, 2017

「読む」と「見る」は違う!

 世の中にはただ「見た」だけなのに「読んだ」と主張する人がいて困る。
 ただ文字を目で追うだけでは「見た」のであって,それは「読んだ」のではない。書いてあることをきちんと自分なりに取り込んで理解しようとして,はじめて「読んだ」と言えるのである。
 「読んでもよくわからなかった」と言っている人が,実はただ「見た」だけでそう言っているという場面によく出会う。「読む」と「見る」の違いをはっきり意識できなければ,学問などということができるわけがないのである。

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July 23, 2017

学力と人間関係能力

 大学院入試の指導などという仕事をしていると,学力と人間関係能力との間には高い相関関係があると感じることが多い。学力の高い人は,総じて人間関係を取り持つのが上手である。ところが学力の低い人は,好きなことを言ったり理不尽な要求をしたりして相手を怒らせたりすることが多い。もちろんこちらとしては約束していることであるから,約束ははたすけれども,そのような人に約束以上のことをこちらからしようとは思わない。おそらく,学力の低い人というのはそうやって今まで来ていて,十分な協力がえられていないのではないかと思ってしまうのである。学問というのは一種の「情報戦」であるから,良好な人間関係から豊富な情報がえられるほうが圧倒的に有利なのである。

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July 10, 2017

学問と外国語

 ぼくは英語以外に,フランス語も辞書を引きながらゆっくりであれば読むことができる(大学院入試の時の第二外国語もフランス語だったし,大学・大学院時代にはフランス語学もそれなりに学んだ)。これが自分の望んだ学問をするうえではとてもありがたい。
 医療・身体社会学という分野に興味があって,暇なときに少しずつ勉強している。もちろん本場はアメリカであるし,先駆者としてはアメリカの社会学者であるタルコット・パーソンズの名前がまず挙がる分野だが,実は日本語や英語の翻訳がほとんど出ていないが注目すべき研究者が,フランス語圏にいるのである。1人はDavid le Breton,もう1人はMichela Marzanoである。フランス語の概説書シリーズとしてよく知られ,日本でも白水社が多数翻訳を出しているQue sais-je?というシリーズには,le BretonのLa sociologie du corps(身体の社会学)と,MarzanoのPhilosophie du corps(身体の哲学)が入っている。また,le Bretonには身体社会学関連の多数の著書があるが,調べてみても日本語はおろか英語にも翻訳されていないようなのである。つまり,彼の著作が読みたければ,フランス語で読むしかないのだ。また,Marzanoの著作には身体社会学の辞典Dictionaire du corpsやJe consens, donc je suis(われ同意す,ゆえにわれあり)といった著作があるが,これらも翻訳はされていないようだ。人類学者のレヴィ・ストロースなども著作はフランス語で書いているが,こちらは英語・日本語ともにだいたい翻訳がある。しかし,le BretonとMarzanoの書いたものを読むためには,フランス語は避けて通ることができないのである。
 もしぼくが第一線の身体社会学の研究者であれば,彼の著作を精力的に翻訳して紹介するのだろうが,在野で趣味程度に研究しているぼくであるから,それほどの影響力はない。ただ,ぼくのところにはle Bretonの著書はおそらく日本のどの大学の図書館よりもたくさんあるのではないかなどと,ひそかに自負して喜んでいる程度である。
 この例のように,学問をしようと思うと外国語が読めるか読めないかは,読みたい文献がどれだけ読めるかに直接影響してくる。だから,大学院に行って学問をしようと考えている人には,少なくとも英語くらいはある程度の読解力を身につけておいたほうがよいと言いたい。

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June 24, 2017

「勉強」ぎらい

 昨日の記事「ポジティブ思考の威力」でも紹介した高妻容一先生と講師控室でお話していたときのことである。先生のお書きになったものを拝読した感想を申し上げているときに,いつものように(先生には機会があるごとにこのお願いをしている)「次は勉強の本を書いてくださいよ」とお願いすると,先生は「『勉強』というと,いやいややっているという感じですよね」とおっしゃった。ぼくも以前からそのように感じていて,「勉強」という言葉は避けてきたので,大いに頷いたのであるが,さて,これは一般的な感覚として通用しているのだろうかと気になったので,国語辞典を引いてみたところ,またもや『新明解』がやってくれていた! この辞書で「勉強」を見ると,冒頭にこのような注釈がついている。


そうすることに抵抗を感じながらも,当面の学業や仕事などに身を入れる意

こういう意味の語であるのだから,「勉強」がおもしろくないのは当然なのである。とらえかたを根底から変えていかなければならないだろう。しかし世の中では,無理やりする「勉強」のありかたを前提として話をする人が多いのではないかと思う。しかも「当面の」というのだから,先の目標など見すえていないのである。これでは学問が楽しくおもしろくなるわけがないのである。

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