学問・資格

August 20, 2017

学問的価値観と文化資本

 フランスの社会学者であるピエール・ブルデューが提唱した考えかたに「文化資本」というものがある。学歴や文化的素養などが家庭を通じて継承され,それが格差となるという考えかたなのだが,大学院入試の指導をしていると,まさに大学院レベルの学問にたえうるかどうかはこの「文化資本」の差なのではないかと感じることがよくある。というのは,こちらが提示する「学問」をきわめてすんなりと受け入れられる人とそうではない人とがどうもいるようで,その差はどうやらそれまでの努力の差ではなく,それまでに身についている「価値観」の差であるようなのだ。
 もしこの見方が妥当であるならば,大学院志望者がまず最初に身につけるべきであるのは,この「価値観」であるということになるわけだが,これが本当にブルデューの言う「文化資本」であるならば,そう簡単に身につくものではない。しかしそれでも,その価値観を「そういうものであるからしっかり受け入れる」という決意をした人は,学ぶ姿勢がきちんとあればある程度,少なくとも大学院入試に対応できる程度には身につくのではないかと思うのだが,これまでの指導経験から言うと,そのような「価値観」はそれを持ち合わせていない人にはなかなか受け入れがたいもののようなのである。

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August 12, 2017

言語能力と学問的能力

 院試塾では,言語能力と学問的能力は深く密接に関わりあっているという考えをもとに指導を行っている。学問とは煎じつめればその分野の「言葉づかい」に慣れ親しみ,自分自身もそのような言葉づかいができることだと考えているからだ。そして,学問的能力が低い人というのは,言語能力も低い人である場合が実に多い。言葉の解釈が自分勝手であったり,読んで理解する能力が低かったりするのである。このような人はもちろん,学問的な生活な言葉づかいなど身につけられるわけがないのである。ところがこれはあまり「自覚症状」がないらしい。
 なお,このような人たちが低いのは学問的な言語能力だけではなく,言語能力全般である。たとえば,単語だけで会話をするなどの傾向も強い。

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August 10, 2017

単なる「指導」を超えて

 大学院入試関連の仕事,特に学問研究の入門である「の指導」をしていて,単なる「指導」の枠を超えて,いっしょに勉強していこうと思える瞬間というのがある。それはもちろんテーマにもよって,専門外で興味をもっていたテーマであることも多いのだが,それ以上にその人のひたむきさというか,一生懸命なようすに打たれてそうするのである。
 そのようなときには,たとえばブックレポートの指定図書を自分でも買っていっしょに読んでいくことになる。単なる指導の場合でもできるかぎりその本は入手して,レポートの指導の際には参照するのだが,それは指導のために参照しているのであって,自分の勉強として読むわけではない。ところが,ここで話題にしているような場合には,「いっしょに勉強」するのであるから,自分の勉強として読むのである。
 おそらく,自分の専門外でも「この人なら自分で研究指導を引きうけてもよいか」と大学院の教員が感じるのは同じような感覚なのではないかと思っている。そして幸い,そのような感覚はどうやらあたっているようで,ぼくがそのように感じた人はたいてい志望大学院に合格していくのである。
 そのような人がどういう特徴を備えているかを考えてみると,まずは知的好奇心にあふれているとともに,実力はともかくも学問的なものの見かたができている人ではないかと思う。つまり,自分の学びに対して自分で責任をもつとともに,「学問的」なものに対して一定の敬意を持っている人,ということができるのではないかと思う。ぼくの周囲で学問を仕事にしている人々を見ても,たしかにそういう人が多いように感じる。

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July 26, 2017

「読む」と「見る」は違う!

 世の中にはただ「見た」だけなのに「読んだ」と主張する人がいて困る。
 ただ文字を目で追うだけでは「見た」のであって,それは「読んだ」のではない。書いてあることをきちんと自分なりに取り込んで理解しようとして,はじめて「読んだ」と言えるのである。
 「読んでもよくわからなかった」と言っている人が,実はただ「見た」だけでそう言っているという場面によく出会う。「読む」と「見る」の違いをはっきり意識できなければ,学問などということができるわけがないのである。

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July 23, 2017

学力と人間関係能力

 大学院入試の指導などという仕事をしていると,学力と人間関係能力との間には高い相関関係があると感じることが多い。学力の高い人は,総じて人間関係を取り持つのが上手である。ところが学力の低い人は,好きなことを言ったり理不尽な要求をしたりして相手を怒らせたりすることが多い。もちろんこちらとしては約束していることであるから,約束ははたすけれども,そのような人に約束以上のことをこちらからしようとは思わない。おそらく,学力の低い人というのはそうやって今まで来ていて,十分な協力がえられていないのではないかと思ってしまうのである。学問というのは一種の「情報戦」であるから,良好な人間関係から豊富な情報がえられるほうが圧倒的に有利なのである。

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July 10, 2017

学問と外国語

 ぼくは英語以外に,フランス語も辞書を引きながらゆっくりであれば読むことができる(大学院入試の時の第二外国語もフランス語だったし,大学・大学院時代にはフランス語学もそれなりに学んだ)。これが自分の望んだ学問をするうえではとてもありがたい。
 医療・身体社会学という分野に興味があって,暇なときに少しずつ勉強している。もちろん本場はアメリカであるし,先駆者としてはアメリカの社会学者であるタルコット・パーソンズの名前がまず挙がる分野だが,実は日本語や英語の翻訳がほとんど出ていないが注目すべき研究者が,フランス語圏にいるのである。1人はDavid le Breton,もう1人はMichela Marzanoである。フランス語の概説書シリーズとしてよく知られ,日本でも白水社が多数翻訳を出しているQue sais-je?というシリーズには,le BretonのLa sociologie du corps(身体の社会学)と,MarzanoのPhilosophie du corps(身体の哲学)が入っている。また,le Bretonには身体社会学関連の多数の著書があるが,調べてみても日本語はおろか英語にも翻訳されていないようなのである。つまり,彼の著作が読みたければ,フランス語で読むしかないのだ。また,Marzanoの著作には身体社会学の辞典Dictionaire du corpsやJe consens, donc je suis(われ同意す,ゆえにわれあり)といった著作があるが,これらも翻訳はされていないようだ。人類学者のレヴィ・ストロースなども著作はフランス語で書いているが,こちらは英語・日本語ともにだいたい翻訳がある。しかし,le BretonとMarzanoの書いたものを読むためには,フランス語は避けて通ることができないのである。
 もしぼくが第一線の身体社会学の研究者であれば,彼の著作を精力的に翻訳して紹介するのだろうが,在野で趣味程度に研究しているぼくであるから,それほどの影響力はない。ただ,ぼくのところにはle Bretonの著書はおそらく日本のどの大学の図書館よりもたくさんあるのではないかなどと,ひそかに自負して喜んでいる程度である。
 この例のように,学問をしようと思うと外国語が読めるか読めないかは,読みたい文献がどれだけ読めるかに直接影響してくる。だから,大学院に行って学問をしようと考えている人には,少なくとも英語くらいはある程度の読解力を身につけておいたほうがよいと言いたい。

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June 24, 2017

「勉強」ぎらい

 昨日の記事「ポジティブ思考の威力」でも紹介した高妻容一先生と講師控室でお話していたときのことである。先生のお書きになったものを拝読した感想を申し上げているときに,いつものように(先生には機会があるごとにこのお願いをしている)「次は勉強の本を書いてくださいよ」とお願いすると,先生は「『勉強』というと,いやいややっているという感じですよね」とおっしゃった。ぼくも以前からそのように感じていて,「勉強」という言葉は避けてきたので,大いに頷いたのであるが,さて,これは一般的な感覚として通用しているのだろうかと気になったので,国語辞典を引いてみたところ,またもや『新明解』がやってくれていた! この辞書で「勉強」を見ると,冒頭にこのような注釈がついている。


そうすることに抵抗を感じながらも,当面の学業や仕事などに身を入れる意

こういう意味の語であるのだから,「勉強」がおもしろくないのは当然なのである。とらえかたを根底から変えていかなければならないだろう。しかし世の中では,無理やりする「勉強」のありかたを前提として話をする人が多いのではないかと思う。しかも「当面の」というのだから,先の目標など見すえていないのである。これでは学問が楽しくおもしろくなるわけがないのである。

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June 23, 2017

ポジティブ思考の威力

 非常勤講師として出講している神奈川大学でごいっしょさせていただく東海大学体育学部の高妻容一先生から,以前ご執筆になって『パーゴルフ』誌に掲載になった記事のコピーを頂戴した(授業の資料として配布するものだったようだ)。「たったひと言でナイスショット連発!―スコアがよくなるラウンド中の独り言」というタイトルの記事で,先生のご専門であるスポーツ心理学の観点から,ゴルフの各局面での「よい独り言」と「悪い独り言」を紹介して解説するという内容だ。これを拝読していて感じたのは,学問とか勉強とかでもまったく同じなのだなぁ,ということである。記事の要点をかんたんに要約すると,肯定的な独り言を言うようにするとうまくいくし,否定的・消極的(「」〜したら」といった)独り言を言ってしまうとプレイに悪影響を及ぼす,ということで,たとえばパッティングのときに「これが入ったらパーだ」というのは悪い独り言で,「入れてパー,よ~しいけるぞ!」はよい独り言だというのである。勉強とか学問とかにおいても,まったく同じことが言えると思う。つまり,勉強することに対して肯定的・積極的なとらえかたをしている人はうまくいくし,否定的・消極的に,「嫌だけどやらないといけないからやる」「試験で失敗するのは嫌だ」と思いながらやっていてもなかなかうまくいかない。
 院試塾サイトの「合格者コメント」読んでいただいてもわかると思うのだが,合格を果たした人たちは学問に対して肯定的・積極的で,大学院入試の勉強も「」いやいややるべき試験勉強」としてではなく,「将来の学びと成長のためのステップ」としてとらえてとりくんでいる。うまくいくのはこういう人たちなのである。
 おそらくこの肯定的・積極的な姿勢にはもう1つ利点がある。それは,周囲の協力がえやすくなるという点だ。ネガティブ思考の人はどうしても他人に対して批判的になり,感謝の言葉が口にできにくくなるから,協力してくれる人も少なくなってしまうだろう。それに対して,肯定的・積極的な人は見ていて楽しくなってついつい周囲も協力したくなるし,そういう考えかたの人は他人に対して批判・避難よりも感謝の言葉が多くなるであろう。その結果,周囲の人の協力がえやすくなり,目標達成もより容易になるのではないだろうか。
 勉強がうまくいかないという人は,一度自分のとらえかたを見直してみてはどうだろうか。

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June 06, 2017

学ぶことの本質―Dead Poets Societyに学ぶ

 Peter Weir監督,Robin Williams主演のDead Poets Society(邦題『いまを生きる』)はぼくが好きな映画の1つだ。Robin Williams演じるJohn Keatingは進学校の英語教師で,生徒たちに人生や学問の本質を伝えようとして,周囲の教師と対立する。特にぼくが好きなシーンが以下である(以下は小説版からの引用)。


 "Uncle Walt again," he said. Ah, but the difficulty of ignoring those creeds and schools, conditioned as we are by our parents, our traditions, by the modern age. How do we, like Walt, permit our own true natures to speak? How do we strip ourselves of prejudices, habits, influences? The endeavor to find a new point of view." The boys listened intently. Then suddenly Keating leaped up on his desk. "Why do I stand here?" he asked.
 "To feel taller?" Charlie suggested.
 "I stand on my desk to remind myself that we must constantly force ourselves to look at things differently. The world looks different from up here. If you don't believe it, stand up here and try it. All of you. Take turns."
 Keating jumped off. All of the boys, except for Todd Anderson, walked to the front of the room, and, a few at a time, took turns standing on Keating's desk. Keating strolled up and down the aisles expectantly as he watched them.
 "If you are sure about something," he said as they slowly returned to their seats, "force yourself to think about it another way, even if you know it's wrong or silly. When you read, don't consider only what the author thinks, but take time to consider what you think. (p.60)

院試塾で日々学問の指導を行っているぼくに特に響くのが引用の最後の「本を読むときには,筆者が何を考えているかだけを考えるのではなく,自分がどう考えるかを考えるのに時間をかけなさい」というKeatingのことばだ。学問のために読むとは,自分の頭で考える材料として読むことなのだから,まずは「自分の考え」が重要なのである。

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May 23, 2017

言語学と物理学の類似性

 Akmajian et. al.Linguistics (MIT Press)は英語で書かれた良質な言語学の概説書で,ぼく自身今でもときどき読みかえしてみる。今回,Chapter 4 Phonology: The Study of Sound Sructureを読んでいて,たいへん興味深い記述に出会ったので,紹介しておきたい。


In the introduction to Chapter 3 we noted that the discrete, linear transcription system that we use to write languages is an idealization. There is nothing in the physical realization of speech (articulation and the acoustic signal) that corresponds to the discrete linear properties of our writing system. Speech is continuous and the phonetic segments overlap, yet speakers have little trouble accepting that speech can be represented by a writing system that uses discrete and linearly written symbols. Such writing systems have been in use for more than two thousand years, since the Greeks, inspired by the Phoenician writing system, developed an orthography that represented both vowels and consonants as separable and autonomous units. The idea that the fundamental sound units of a language are consonants and vowels has persisted since that time, and only in the twentieth century was it discovered that consonants and vowels are in turn composed of more basic units, the so-called distinctive features. We will present three types of evidence for these features in this chapter. (p.109)

物理学においては,原子核が陽子と中性子から成りたっており,これらの陽子や中性子がさらに小さな素粒子から成りたっていることがわかってきた。言語学においても,下線部で述べられているとおり,母音や子音という基本単位がさらに小さな弁別的特性から成りたっていることがわかってきたのである。しかも,この引用では述べられていないが,弁別的特性に注目することで「自然類」が定義でき,それによってさまざまな音韻現象が説明できるのである。
 学問においては,このように,ある概念はそれだけのために導入されるのではなく,それを導入することで記述や説明がやりやすくなるから導入されるのである。このような学問の性質をしっかり見すえることが大切ではないだろうか。

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